水野晴斗は、朝から何も作っていなかった。
机の上には、開きっぱなしのノートPC。画面には、昨日から一文字も進んでいない仕様書。その横には、冷めたコーヒーが置かれている。
外では、雨が降っていた。
東京の六月は、いつも少し重い。空気も、服も、気持ちも、全部が湿っている。
晴斗は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「……俺、何やってんだろうな」
三十二歳。元エンジニア。今はフリーランスのような、会社員のような、中途半端な立場で仕事をしている。
AIがコードを書き、AIが資料を作り、AIが設計の抜けを指摘する時代。晴斗が昔、必死に覚えた技術は、今では新人でもAIに聞けばだいたい形にできる。
もちろん、人間が不要になったわけではない。
でも晴斗は、最近ずっと思っていた。
自分は本当に、作っているのだろうか。ただ、AIが出したものを確認しているだけではないのか。
昔は違った。
徹夜でコードを書いた。動かなくてキレた。でも、朝方に画面が動いた瞬間、体の奥から変な笑いが出た。
「できた」
あの感覚が好きだった。
世界に、小さな穴を開けたような気がした。
でも今は、何かを作っても、その手応えが薄い。
速い。便利。正確。でも、自分の中に火が残らない。
そのとき、画面の右下に通知が出た。
mymem 5年前の今日、あなたは似た言葉を記録しています。読みますか?
晴斗は通知をクリックした。
2029年6月2日最近、AIが便利すぎて怖い。何でもできるのに、自分で作った感じがしない。
でも本当は、AIが怖いんじゃない。自分が何を作りたかったのか、忘れているのが怖い。
いつか、人が自分の考えを忘れないための道具を作りたい。迷った日も、失敗した日も、未来の自分が取り戻せるようなものを。
晴斗は、しばらく動けなかった。
「……俺、こんなこと考えてたのか」
mymemは、次の行を表示した。
この記録は、当時あなたが「mymem構想」とタグ付けした最初のメモです。今の迷いと並べますか?
画面が二分割された。
左には、五年前のメモ。右には、昨日の自分が書いた短い日記。
2034年6月1日今日もAIの出力を確認して終わった。仕事は進んでいる。でも、自分が進んでいる感じがしない。
五年前の自分と、昨日の自分が、同じ場所で止まっている。
mymemは静かに問いを出した。
あなたは、何を作る人でいたかったですか?
晴斗は、すぐには答えられなかった。
夕方、佐伯玲奈から連絡が来た。
玲奈は、晴斗の元同僚だった。判断が早く、説明がうまく、現実を見る力がある。
「新しいAIプロダクトの立ち上げがある。記憶系。ユーザーの行動ログとか会話履歴を使って、次にやるべきことを提案するサービス」
「記憶系?」
「うん。企業向け。営業とか開発チーム向けに、AIが過去ログから次のアクションを出す」
「便利そうだね」
「便利だよ。たぶん売れる」
玲奈はそう言い切った。
晴斗は、画面の端に開いたままのmymemを見た。
人が自分の考えを忘れないための道具を作りたい。
玲奈が続ける。
「晴斗にUIと体験設計を見てほしい。あなた、こういうの得意でしょ」
「俺が?」
「そう。記憶とか、AIとの付き合い方とか。昔から変なこだわりあったじゃん」
「変なこだわりって」
「褒めてる」
玲奈は少し笑った。
「ただ、今回はスピード重視。まずは企業が使いやすい形にする。深い思想とかは後でいい」
深い思想とかは後でいい。
その言葉が、少し引っかかった。
「記憶って、次のアクションを出すためだけのものなのかな」
玲奈は少し目を細めた。
「どういう意味?」
「人が何かを記録するのって、効率化だけじゃない気がする。もっとこう……後で自分に戻ってくるものというか」
玲奈は少し黙った。
「それはわかる。でも、最初からそれを入れると重いよ」
「重い?」
「うん。ユーザーは、まず便利かどうかで見る。売れる形にしないと、誰にも届かない」
それも正しい。
玲奈はいつも正しいことを言う。だから、晴斗は何も言えなくなる。
「夢だけじゃ食べていけないよ」
玲奈は、少しだけやわらかい声で言った。
責める言い方ではなかった。でも、晴斗には刺さった。
夢。
そうか。これは夢だったのか。
通話が終わったあと、mymemがまた表示した。
2028年12月のメモに、関連する記録があります。
晴斗は開いた。
2028年12月14日人は、正解が欲しいんじゃなくて、自分で選んだと思える道が欲しいのかもしれない。
AIが全部提案してくれるほど、人は楽になる。でも、自分で決めた感覚がなくなると、人生が他人事になる。
記憶は、答えを出すためだけじゃない。自分がなぜそう思ったのかを、後から取り戻すためにある。
晴斗は、椅子から立ち上がった。
胸の奥が、少し熱くなっていた。
まだ形にはならない。でも、何かが戻ってきている。
晴斗はノートを開いた。
mymemは、答えを出すAIではない。人間が、自分の考えを取り戻すための道具。
AIに決めてもらうのではなく、AIに過去の自分を連れてきてもらう。
その上で、今の自分が選ぶ。
書き終えた瞬間、晴斗は小さく息を吐いた。
完璧な言葉ではない。でも、自分の言葉だった。
その夜、晴斗は久しぶりにコードエディタを開いた。
仕事ではない。誰かに頼まれたものでもない。まだ名前もない、小さな試作品。
画面には、空のファイルがある。
晴斗は少し迷ってから、最初の一行を書いた。
type Memory = {
text: string;
reason?: string;
createdAt: string;
};それだけだった。
でも、なぜか心臓が少し速くなった。
「……まだ終わってないな」
雨は、いつの間にか止んでいた。